コロナになりたがる奴
今はたいしてそうでもないけれど、ひとときは回文をつくることを考えすぎて、回文になりそうなキーワードを探してばかりいた。
これは十年くらい前に数字の占いを齧っていたときも同じで、街なかで数字を見つけようものなら、なんでもかんでも時運に連想させた。
そちらに関しては今でも癖が残っていて、例えば銭湯の下駄箱の数字などは、残っているものから縁起の良さそうな数字を選択できなくもないので、なんとなく37番とか、今日なんかは55番を選んだ。
まあ、じっさいに縁起がいいかはさておき、ガキの頃、松井秀喜に夢中だったことなど思い出したりするような、他愛のない連想が大半であるから、いかにも子供じみたこだわりだと思われるかも知れないが、そこらへんは私もだてに占いを齧ってはいないので、55にもうひとつ向こうの連想に身をやつしたりする。
どちらかといえば拡散性の強い5と5を足すと10になるので拡散が集約されてイケイケ突貫数になるのである。
5は象形的に、入り口と出口がまったく違うところを向いているし、よく観察するとかなりアナーキーな、誰が考えたんや!みたいな動機不明、突発的なムードを放っている。漢数字の五はむしろ整然としているが、やはり其のエネルギーは行きつ戻りつし、錯綜を感じさせなくもない。言わば自由で明るい迷いを内包している。
多動症的な数字ともいえそう。
そんな拡散数の五と五が合わさった55はゴーゴーなのだ。
爆発力があり、やけくそにも思えるエネルギーが一点に集中し、ライトスタンドに突き刺さるのである。
とか、瞬時のうちにイメージしながら下駄箱を選んだ銭湯は下北沢の商店街から外れた住宅街にあり、何ヶ月か前に一度来たことがあったのをその時は忘れていた。
思い出したのは番台で貸しタオルを所望したときで、実直そうな爺さんはすぐさま怪訝な顔になり、うちはやってません、とビニール袋に入った新品のタオルを差し出してきた。
値段を訊くと170円とな。
この銭湯しみったれているな、と思ったのがすなわち二回目であったので、一度目にこんな貸しタオルのない銭湯二度と来るかと思ったことを思い出したのである。
改めて自分が毎日ぼんやりしていることを思い出した。
ぼんやりしているし、それにつけて高々170円のタオルを買わされることをしみったれていると感じる卑しさがそもそもしみったれている。
銭湯ていうのは入りたい時に開いていること自体が奇跡的で有難いことなのである。
少し慮ればわかることだ。
毎晩湯船を掃除するだけでも難儀なのに、そこから客に使われたタオルを洗って干し直すことなど考えただけで億劫だ。
こういう慮りの前に舌打ちが出てしまうことが言わば慮りの欠如であり神経の鈍化を証左している。瀕して貪しているのだ。
じっさい昼過ぎ前まで無一文だったので、昼飯はピーナッツバターの挟まったコッペパンしか食っていなかった。
しかし、さいきんのピーナッツバターのはさまったコッペパンはピーナッツバターが2、3口ではみ出るくらいぎっしり入っていて、食いごたえがあって実にうまくて毎日食べたくなる。
あれ、貧困との相性が良すぎるのである。
昼すぎに一万円とちょっと無事ふりこまれたわけだが、その時点でケータイの電源が切れていたし、アイフォーン用の電源の線を忘れていたから、コンビニで変換コネクタを万引きしようかさんざん迷って買った。千二百円くらいした。痛い出費だったのだが、勤務終了後の連絡ができないと社長が困るだろうから、いやいや買った。
コンビニで売ってるケータイ関連品は高すぎる。
プワーだ。
プアーか。
この一年はよくがんばった。
都会に利用されるだけ利用されたろうと思ってひたすら働いた。
結果たいして誰にも有り難がられず、顰蹙ばかり買って、残ったのはいくらかの負債と腰痛ときたない部屋だけだった。
あと、妙な回文。
自分の業はなんぼか理解しているつもりで、そのなかに泥まみれで言わばインフラの末端の末端みたいな仕事を下を見ればキリがない同胞と共に味わう、というタスクがある(という妙な確信)。
想像するだに私の親父はぼんやりしすぎていた。
そして、確実に私は親父に輪をかけてぼんやりしている。
それにも拘らずぼんやりを愛おしく思う心が捨てられない。
土の下にいく層もいく層も昔ニンゲンだったらしい骨が埋まっていてその上になんでかぽっかり自分みたいなのが存在していて呑気に鼻水を垂らしている。自分と同胞のおかしみに思いを馳せながらぼんやり朽ちたい気持ちが欲望を圧倒してゆくのを、山手線を回遊しながら感じていると、すべての乗客がマスクを決め込んで丸ごと達観しているみたいに青い光を眼球に照らしながら海外のドラマとか観てる。
人は強いな、とおもう。
虫くらい強い。
きれいな服を着ているな、とおもう。
みんな上々に滅菌されているように見えなくもない。
マスクは買いあぐねたので、丸腰で過ごしている。
私は菌そのものだ。
マスクはしてないし、滋賀のタヌキの置物みたいにキンタマが腫れたおっさんと同じ湯船に入っているし、毒の雨に打たれたフィリピンのバナナを食ってなんとか生きてる。
ところで普段スーパーで売ってるしゅっとしたバナナはキャベンディッシュという種らしくて主に輸入専門品らしい。
現地の人は農薬を上からさんざん浴びながらも、しっかりちゃっかりキャベンディッシュとは距離をおき、ごつごつした在来種を常食しているらしい。
ひとえにそういうのが強さだな、とおもう。
さいきん、立会川という京急線の鄙びた駅のちかくの八百屋で、やけに印象的なバナナを見つけて所望するようになった。
店主は立っているのがやっとみたいな妖怪みたいなばあさんで、こわごわ話しかけると気さくに応えてくれた。
曰く、「フィリピンの人が料理ように買っていくのよ。よくわからないけど天ぷらにするとか。おいしいのかしら?」
そのバナナは青々としていて短くてどーんとした房で丸ごと売っていて、押し入れに一週間くらい置いたら熟しておいしく頂けるようになった。
南国の香りがふわーんと鼻をつく。
もっと多彩な直線的でない波状の香り。
おおげさに言うとこのバナナが今の私の希望の一つなのである。
なんでかよくわからんけど。