短歌は馬車に乗って

スイートなエッセイです

スカスカ夢日記3

f:id:kon-fu:20201024134809j:image海の近くの手作り感のある商業施設で働いている。

丘を徒歩で越えて十分くらいで水平線が見えるけれど、何かとばたばたしていて、なかなか出向く機会はないです。

従業員をしているお土産屋は何が売りたいのか、売り手のこちらもいまいち要領を得ず、じっさい上がりはかなり悪そうだ。 

ぱっとしない手拭いとか草鞋とかぬいぐるみとか。誰が買うねんみたいな。

山ぐるみを上司に推したけど、奇抜過ぎるという理由で提案を棄却された。

それなりに知れた景勝地なので人が来ないことはないんだけど、、

もとは教室だった部屋で、あのいわゆる学校机を客席にしているカフェには案外客が埋まっていて、やはり商売はベタにやった方がいいな、とか思ったり。働いている子たちも可愛らしくて差し障りがないよね。

ペットサウンドなんか小音でかけててさ。

窓越しに夕陽が差して暗がりぬ。

これからどこへ行くのかね?

ゴットオンリーノウズ。

 

スタッフ三人、三様にあれこれ思案しながら日が暮れたので、すごすごと店じまいして、中年のおっさんの西岡さんの提案で、浜辺でしっぽり懇親会をすることになった。

西岡さんは濃い茶色のグラサンをかけている、どちらかというとかなり胡散臭い御仁だ。

昭和の匂いを護摩で毎朝焚きつけているような、発言も居住まいもどこか現実から超然としている。

どこから来たのかの問えば、ゼネコンの仕事で来た、と言った。

だけどヘルニアになっちゃってね。何年前だったっけな。

とか、確信をぼやかしたりする。

狭山さんは狭山さんでテキパキしてるようなぼんやりしてるような、平凡な三十路前の女性だ。実家暮らしらしい。

まだ、ぎりぎり薄い上着でやり過ごせれる初秋っぼい晴れの日で、僕がタバコを切らしていたら、西岡さんがウエストというタバコをくれた。

エストはスカスカな味でしかも長い。

パッケージもしらけているというか、それでも今日の昼間の空みたいな現実味の無さとマッチしなくもないな。

紙タバコを吸うと喉に違和感があるようになってきた。

「タバコ好きなんですね」と狭山さんがみもふたもないことを言う。

ええ、と西岡さんが答える。

ギターを持って来ているし、どうやら歌い出すようだ。

赤めいてきた海の向こうの空は次第に現実味を醸し出している。にわかに重たくなる、というか。

さあ、一歩出したあ

と、西岡さんが唐突に立ち上がり、ギターと一緒にやり始めた。

ぎらぎらした金属音と同時に、腹に溜まった空圧みたいのがブハッと飛び出して、これはもしかしたらすごいんかもしれない。

歌詞は説教くさいけど、生で聴くと一味も二味も違うなあ。

狭山さんもしゃんとなってまわりの空気がぴりぴりと震えてるよう。

ときに、なんだか聴いたことがある歌な気がすると気がついて合点がいった。

西岡さんは西岡たかしかもしれん。

考えよーおう

と、野太い声で歌っている。

こんな声、出はんねや

と感心しながら聴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スカスカ夢日記2

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私はどうやら実家から引っ越すらしくバタバタと準備をしている。

籐編みの衣装ダンスにしこたま服をつめこんで、外身と中身がわやになったCDたちを、トランプの神経衰弱をするみたいに、もとのさやに戻したり、その折々、それらにまつわるあれこれがふわっと頭を巡ったりして、手が止まって、はたと気がつくと何分間そうしていたかわからなくなったりした。

ダコタハウスという四畳半の畳のアパートを借りていた。狭いけれど京間だし、西の窓がすかん、と開けていて、午前中とか気持ちいい。

マヘルの国立気分の青いジャケットをあぐらの上で見つめながらぼんやり、自分の思春期のような、空疎で暇な昼下がりは平和なようなそうでないような、鬱々としたコーヒータイムを、斜に構えたり、変な虚勢を張ったり、まあとにかく孤独で、乾いたキャメルをばかすか吸って、なんとかという曲のギターソロで涙が出た。

ぼやけた音像の中でギターの音が飛沫みたいに「ぴっちゃん」と跳ねている、、

そんなことなので作業はかなり遅々としているけれど進まないことはない。

ときに家ではあまりタバコを吸わなくなったなあ。

ところで私の探し物、出町王将で借りたはずの、競馬好きのライターが書いたハードカバーの赤い本が見つからない。

この十月であそこは閉めてしまうらしい、という噂はここいらではよくよく話題になるし、出町柳の喫茶店で読んだ今週の文春にマスターの笑顔が写った写真が、ある白黒の一面を大きく飾っていて、、

そのときにふと思い出したけど、それだけでなくて、ふとした瞬間はこの三年くらいで、何度も何度もあったわけで、もしかしたら東京に置き忘れて行ってしまったかもしれん。

ヒシアマゾンという牝馬にまつわる頗るニッチな、着地点のない沼みたいな、けれど熱い文章だった。

マスターには申し訳がないんですが、今回はどうも見つかりそうにありません、ふと母が、

「あんた、あれ、友達じゃないかしら。表に霊柩車が停まってるわ」とちょっと興奮しながら居すまいを正している。

玄関先で尻尾を振っているアニキをおしのけて外に出ると、運転席から助手席の窓に体を伸ばしたテツオがちょい、と顔と手を出して「おっす」と言った。

秋空がめっぽう晴れている。

「えらい車仕入れたね」とこちらが言うと、

「借りもんだよ」と彼は言った。

 

 

 

スカスカ夢日記1

f:id:kon-fu:20200917205035j:image飲み屋でまたあのパイセンが瞳孔開いて知り合いの客にからんでいる。

僕はカウンターで少しひやひやしているのだが、はんぶんは好奇の目でもって眺めていたかもしれない。

制裁は一瞬のできことで、パイセンは左の頬に、多分けっこう若い男の右ストレートを喰らわされるわけだが、いなやぱんぱんに腫れてしまった。殴るモーションと同時に的確な悪態も吐かれていた。

それでも、気が引かないのがパイセンの持ち味だし、その狂気みたいな雰囲気だけは空気を刹那ひやつかせるものの、表情がピエロみたいにぐにゃんと歪んでいて、しかも冷笑的ににやけていてどちらかっつうと不憫だ。

ノーガードの相手がなけなしの反撃を見舞われるも、すかさず応酬を受けパイセンは床に崩れ落ちた。応戦不能な雰囲気である。

傍観者である自分が忍びなくも感じるが、どうしたもんかなあ、と白けてしまった。

今回の怪我はかなり凄惨だろうなあ。

とはいえなんともリアクションしにくいなあ。

 

 

 

 

ソカイ日記03

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ソカイして五ヶ月が経った。

古都に夏が停滞しております。

僕は相変わらずマーキング至上主義でやっております。

海がだめだったりセロリが好きだったりするのね。

で、先程、だいたい週一でマーキングしている喫茶店に訪れたら、僕が入店して少しくして常連の女性が来、相席した。

この店では店主もしくはスタッフと顔見知りになるとカウンター前の四人テーブルに案内してくれるようになり、自分の知らないお客さんが先に座っていたりしていても席が空いてさえいれば、合う合わないの余計な忖度なしに、時によっては隣り合わせ、何気なく紹介などしてくれて差し障りのない会話が楽しめるのだけれど、たまに手前が要らんこと喋くり過ぎたな、という反省が後を引くことがある。

ときに小生、最近は早朝から体を暖めているので、起き抜けにいつも通りのルーチンワークに赴いてるお店の店主さんとカチ合うと、予めベロベロに酔っ払っている人間とどシラフの人間くらいテンションが違うことがままあり、露骨に嫌がられることも日常茶飯事、いささか日本人的な感性なのかも知れないけれど、空気感、調和、差し障り無さ等を読むことをある意味で強制されているような寂しさを覚えることも瞬間瞬間ではあるな、あるけどそこは僕もそういうのを含めて好きで通っている自負があるから執拗に街に通う、たまに嫌やけど基本的にはまあいいか、みたいなセーフティラインを常に探すのが段々楽しくなってきたというか、別に自分なんて敢えてまで曝け出さんでもええやんていう姿勢に変わってきた部分もあるし嫌われても仕方ないか、それらは見方によっては名実ともにおっさんになってきたってことともいえるかな、どっちにしろ意識的にリラックスすることに少しずつしっくりき始めている実感があって、同時に通っている店みせ特にキャフェーへの愛着がじわじわ湧き続けているから切り替えが大事、あかんときはちゃちゃっと退出して後グサれを最小限に抑え、けっきょく何食わぬ顔でしれっとまた行くでしょう。客は神様ではございませんよ!自分の立場から言わせてもらうと気い使い過ぎる客もけっこう腹立つけど。

日々勉強、今日はなんかの拍子に甲子園の話にその女性となって曰く、

「私プロ野球は観たいって思わへんけど甲子園は好きやわあ」

こう言う人は結構いるっていうか実際はどっちでもええのに若輩ながら偉そうにあまりに短絡的だなあとか思ってしまってついつい、それつまりどういうとこがっすか?とかいう風につっかかってしまいます。

「え、だってめっちゃ頑張ったはるやん」

とかいう返答に対して私はあまりに無力でついつい、いやいやそんなんプロかて当たり前に頑張ったはるし、そもそも高校球児は頑張る姿勢をプレゼンするのに頑張り過ぎてるフシがありますわ、頑張ってんのはそりゃ分かりますがな、それにつけてこの炎天下でですな、絶対間に合わへんのに一塁にヘッドスライディングしたがるしてる姿勢を良しと思うような全体的なムードがまじで嫌いで、特攻隊の名残まだ残ってんの?苦行みたいに揃いも揃って丸坊主にしなあかんていう同調意識もけっこう薄ら寒いですよ、眉毛細う細うして、ところで〇〇さん、あのアルプススタンドに目を向けたことありますか?そう、チアガールが大挙して脚をけたぐり上げてるとこ、あれはいいよね、、ああ今年はいてへんのかそれは寂しい、いやいや違いますねん大抵チアガールの前列でベンチ入りから外れた部員達が大勢並んでて、その中には特に強豪校やったら最後の夏の三年生もめっちゃようけおるんですよ、そういう連中もメガホン潰れるくらい叩いて喉潰れるくらい声を出すことを雰囲気てきに強制されてですな、そら賑やかし好きな生まれながらのムードメーカーもいてるやろうけど大半は白けてますよ、早よ負けたら夏休み増えるのに、とかえてしてダウナー、親からしても遠征費とかまじでばかにならへんと思いますよ、とにかく視点によっては大地獄甲子園ですよ、あれを良しと煽ることに無自覚なんはギリシャのコロセウムの観客と一緒である意味殺人幇助だと思うんですがどうすか、熱闘甲子園は戦時中の凱旋報道と変わらんと思いません?せめてベンチから外れた部員が私服で彼女となんとかフラペチーノでも舐めながら今年暑くねーとか言いながらちんたらネット裏で同僚のエースに、そこは真っ直ぐでええやろ!とか無責任なヤジを飛ばせて、そういうのを容認できる指導者がいたらまだ納得もできるけど、、そんなんありえへんわな〜、ようするに未開の国なんですよ、熱湯コマーシャルが放映出来てた時代はまだマシだと思いませんてんす?ムードって恐い〜ややこしや〜

とか捲し立ててたらそら白けるわ、すぐ女性は帰ってしまうでしょうね。

調和も乱れるしロクな空気は残りません。

日々勉強、いつも大人になり切れん僕を迎え入れてくれてるお店の方々お客の皆様毎度えらいすんまへん

良きにはからえ、あまり昨日のことを持ち越さずまた会えたらさいわいです。

 

 

 

 

 

 

ねじ式健康呼吸法その4

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(今回は晩年の吉本隆明先輩風でいこうかな)

 

今はどうだかわかりませんが、ひととき自己肯定という言葉を巷でよく聞きました。

この言葉には私が思うに少し恐い側面があります。

同語の発信源であるともいえるアドラーという心理学者が説明するところによると、ライフスタイルつまり一人ひとりの生き方を考える上で特定の誰かが例えば「さらに自分を高めていかねばならない」とかいう風に思ったり感じている時、彼は常に「相対的マイナス状態」にあると捉えられます。

つまり「自己肯定感を高めていかないと!」と言っていること自体が「自己肯定感まじでありません!」と言っていることと同じなのです。これは冷静に考えますと、たいして発展性が無い、わざとらしい言葉のドツボにはまっているようなものなので、だからといって人の頑張りや向上心を無下には出来ませんが、私は「頑張る」人をどちらかというと信用していません。

同じロジックを用いると、例えば「私ってほんま酒癖悪いねん!」というようなことをしばしば友人等に訴えている人をちょくちょく見かけますが、私自身、酒癖が悪い人が結構好きな事をさておきまして差し引きましても、いささか子供っぽいといいますか、「そんな頑張ってる自分を認めてくれる?」という強かな欲求ばかりが透けて見え過ぎてしまってやんわり若しくは速攻に距離を置きたくなってしまいます。

こういったことを面と向かって実際頑張りまくっているように見受けられる誰かに伝えると大抵トゲばかりが受けとられるというか、特にレデイというのはデリケエトである場合が多いのか直ぐに「ほんなら私喋られへんし、もうアンタには何も言わへんわ」というような状態に陥ってしまうので困ってしまいます。ようするに自己批判が出来ないのです。

批判と否定は全く別のものだと思います。

「なんで私の悪いとこばっかり見つけるの?」と誰かが言ったり思ったりする時、それは当人が自身を既に否定していて、他人の思いを率直に受け取れる状態に無いと吐露しているようなものです。往々にして自ら何かに疲れ過ぎているのでしょう。建設的な話にはなり得ず、たいてい見ず知らずの出来事や見ず知らずの誰かの話にばかり執心していて、ちっとも面白くありません。

悪意があろうが無かろうが、言葉尻が丸かろうが上品だろうが、こういう人は言動に攻撃性の強い場合が多いので三歳くらいの子供っぽい健康な子供と稚拙な言葉を交わしている方が面白い。

ちょくちょく宅に会いに行っている友人の兄ちゃん、もとい友人の娘がおりまして、こないだ不意に彼女が私を暗い寝室に招いてくれたのですが、その大人ぶりにびっくりしてしまいました。どうやらトイメンで内緒話をするムードを演出してくれているようです。少し恥ずかしそうに身を捩りながら、

「○○ちゃん(友人の娘)な、子供が出来たらあ、男の子だったら✖️✖️くんて名前つけんねん。女の子だったら、、」といった告白を受けて私は度肝を抜かれてしまいました。いと微笑ましいというか、真摯というか、おてんばというか、シチュエーション的に君は今、私に抱かれてもいいというモーションをかけていると誤解されても全くおかしくない意思表示をしているようなもんですよ!

とは、まあ、伝えませんが、なんと直接的で面白いなあ。

彼女は身許にお母さんが居ないのですが、それにも拘らず自然に女の子に成長している不思議。どこでそんな表現覚えて来るんでしょうね。

とにかく、なんでもしたい、なんでも出来る、という可能性が体から溢れていて、今、わりかし身近の中で、とても勉強になる存在の一人なんです。

いやはやロリコンと思われても仕方がない前置きが長くなってしまいましたが、、

 

ねじ式健康呼吸法その4〜川のほとりで真言エブリシングマストパスを唱えまくる〜】*夏は暑いとひたすらに叫び続けたい方はご遠慮ください。その5は次回です。ステイホット!*

 

いやあ暑いですね。

ところで先ず、鼻詰まりをなんとか取った状態でもって、動いたり、汗かいたりなんかして、特に脚が疲れた状態まで持っていく。

其れから、適度に足を漬けられるような出来る限り淀んでいない川を見つけて、煩くない日陰をオキュパイする。

腰を据えて、タバコなど一服したのち、水を手ですくい顔を洗ったり、腕や脚にかけたりしたら、それだけで取り敢えずクーリッシュ

リラックスできて尻がなるたけ痛くない落とし所が決まったら、真っ直ぐ見据えた視界のセンターに意識を据えるポイントのような何かが見つかる。石であれ、植物であれ、落書きであれ、パッと動かない何か。

もし余裕があるなら視界のセンターから両翼にかけて左右対称か対称に近いスポットがより好ましい。(ちなみに神社はたいていシンメトリーに作られている。寺もかな?)

ほんでもってリラックス状態を保ちながら、背骨をすうっと弓なりに伸ばす。この時点で、臍の下のあたりで腸がギュルルと回転するような音が聞こえたら、あなたは既に決まっている。

腹から息を捻り出すように吐き切るギリギリのタイミングで鼻から川の流気を思い切り吸い込んだら、普段の瞑想より効果がまったく早いことに気付くでしょう。

遅くとも三呼吸くらい満遍なくしていたら、頭の奥からマイブラの音楽がぶっ壊れてサンバ調になったみたいな音が聴こえて来、前後不覚、ハードリラックス状態、まるで身体にダブがかかったように浮ついてくる。

なんとなく慣れてきて、意識が散漫になってきたら川の流れに意識を及ばして、このような真言を唱えましょう。

すなわち、エブリシングマストパス

和訳するなら、一切は過ぎ去りまっせ

もくもくと唱えていると瞑想が長持ちしたりします。

だいたい自分においては気持ち良すぎて五分で限界が来ますけど!

事後もちろん、脚はすっきり頭もすっきり、事前より風が涼しく感じられるようになっているはずですヨ!

健康第一!

マネーがあったら尚いいな!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東山湯の奇跡本編までの軌跡

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市バス17系統に揺られている。

雨がだんだらに降っており、バスが走行・停止を繰り返しているのは何時もながらだろうが焼けに呼吸のリズムと其れが合っているような気がして不思議。

頭の奥からみゅーーん、という音がしているのでふっと意識の波長がそちらへ流れてしまって窓外の緑が際立つっつうか、懐かしくて、どうでもいいけど凄く好きな過去みたいな風景だなあ。どっちみち流れているけど、、

 

ストップandゴーは思いの外きもちいい、という発見。

ティアドロップ型のグラサンを思い切って決めて、農学部近くの喫茶店に入るやいなや既にマーヴィンは観客の喝采の途中で、もしかしたら客によっては嫌がらせに聴こえてしまうかもしれない。

バーズのヤンガーザンイエスタデイというアルバムが大好きで、その表題曲だったかな?定かでないけど、曲間に嘘の客の大喝采が挟まれる所があって、たしかA面の最初の曲だか其の次の曲。

それはビートルズのアンソロジーのライブ版で聴こえてくるマジほんまの客の大喝采に対する僻みみたいに聴こえなくもない、けどどっちかつったら偏屈なオマージュかな。

小生も何でか生まれたときから捻くれているんだけど、ひねてる故にビートルズよりもバーズの其れで高揚してしまうフシがあって、それは今でも変わってない、それでももう三十路をとうに越えたのでビートルズの赤盤でも全然腰ふれます。やっぱ盤はええなあって、この歳でやっとこ分かる、バーズも(Nシャラポアも)やっぱスピード感あるなあ、って一人で再確認。

 

バーズの件はさておき、こともあろうに私はこちらに入店する大分まえから既に腰を振る準備が出来ていて、何というかソウルに魂を売ってしまっているというか、とにかくカセットで、繁忙時とか時によってはエンドレスリピートされている農学部近くの喫茶店のBGM用のカセットの良さが今春に至って漸くわかった。

だからといって、カセットだとかアンプだとかスピーカーや曲の内容が良いんだよ〜っていう訳では多分なくて、それも勿論あるんだろうけど、つまり僕がこの街を離れている一年くらいの間に此方の喫茶店にニュースタッフのDJが入ったんだよね。彼女が多分、店と音楽が大好きなだけ、ソウル売ってんのがフウっと分かってしまう。知らん曲でも「フウゥ〜」で、あ、これマーヴィンやん、て分かるみたいに。持ち前のコード感みたいなんも勿論あります。

 

そんなことを考えながらもコロナなのでバスの上窓がしれえ、と開いていて私的には可也助かる。

外の空気が好きなんです。

「夏なんです」より「夏の前日」のが好きなんです。

日傘くるくる僕は退屈。

 

日を避けて草陰に入り藪蚊かな

 

俳句も詠める。

 

雨の具合が丁度よくて傘がなくても結構いける。

三条河原町で同じくしてライドンしたピチピチのジーパンを履いた何となくステキそうな女の子の空気を背後に感じながらバスの真ん中あたりで私は立ち乗り。

ふと停まってエンジンが止まって隙間風が鼻にフウっと入って来る。

意識が景色に向くとバスの車高によって並木に生えてる割と高い木の緑と目が合う。

そしたら、入ってくる風の要素に緑がパッと加わって丸で排気ガスを浄化してくれるみたい。

停まったら停まったで、ええ空気入ってくるしバスってマジさいこ〜、って呼吸を繰り返していたら、農学部前で件の女の子が先に降りて何かリッチな学生マンションに吸い込まれていった。知らない誰かの住居が特定されるのは恐ろしいな、俺は理性があるから忘れたフリも出来るが斯ういうコトに関しての記憶力は死ぬほどいいのだ。

兎角、街には可愛い女の子が多過ぎる。

それはNシャラポアも「牛のよだれ」っていうアシッドフォークの珍曲が書けるわ。

みんな天然の当たり屋か!って、いつも市街地の六角通りあたりか、で、往来を眺めながら思っている。

めいめい気を付けろよ!

 

気を付けられ過ぎても困るんだけど、そんな感じで竹林の坊主の店に辿り着いた。

四周年のアニバーサリーナイトだと聞いていたから、あれやこれや喝采みたいに、劇場みたいな大盛り上がりというか、ようするに人で一杯みたいな状況を想定していたのだけど案外客は誰も居なくて、坊主はいつもと変わらない態度で迎えてくれて、それはそれでとてもよかった。

渋いな、とも思った。

それはまるで、私が敬愛する百閒先生の書き物みたい。

つまり、今晩パーティがあるんやけどパーティつうのは人に振り回され過ぎるフシがあるさかい行きたいのは山々なんやんか、ほんま行きたいねんけど今なんか気が乗り切らんし家でしっぽり何時も同じクオリティの沢の鶴みたいな日本酒で済ませますわ〜、せやけど勝手に、ウチが参入させてもらってる体で、パーティの風景書かせてもらいまっせ!!

ていう感じに、色々バスの中で勝手に想像してしまっていて、それもそれで結構良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東山湯の奇跡

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七月七日のこと。

竹林の坊主の店が四周年と聞いていたので、それとなく祝おうと晩の七時過ぎくらいにダロンド氏のキャフェーを離れ三条河原町から市バスに乗った。

少しばかし雨が降っていた記憶がある。

バスに乗るのは久しぶりだった。

なんせ、持ち回りの経路をひたすらに、ちんたら歩く生活が気持ちよくって気持ちよくって、その時までバスが意識から消えていたわけで。

しかしまあ、どうやら雨が降っているし傘はあまり持ち歩かないのでイージーな、心持ちで銀閣寺方面への市バスにライドンしたら如何して案外めっちゃ良くて。

どういう感じかというと、以前まではどちらかと言えばしんどいなあ〜と思っていた立ち乗りが何だか楽しい。

それは丸でパターソン現象。

観てない方にはちょいと伝わりにくいのでカンタンに説明させてもらいますと、ジムジャームッシュ監督の割りかし最近の映画でパターソンつうのがありまして、パターソンという町に住んでいるパターソンという青年が、町を毎日ワンペースに周るバスの運転手を生業にしながら、ふとしたタイミングで詩をしたためる、

活動的なパートナー以外はおしなべて淡々と生活が流れていく、という感じ。

流れるミュージック流れるメロディ、と今、長いこと居座らせてもうてるキャフェーの二階でフィッシュマンズがカカッテいるわけですが、これにはどうしても乗ってしまう。かける盤もナイスです。いずれやって来る盆に寄り添うナイスグルーブ。ダブらされたラッパが鳴ってます。背骨が伸びるっつうか、、

話がそれなりにそれはそれで逸れてないす。

その、淡々を尊重しているパターソンが仕事前の彼以外誰もいないバスの運転席に佇む数分か何分かの余白みたいな時間の中で、いい感じの妙なるっつうか、幽玄みたいな?

みたいなアンビエント的効果音が流れ出し、彼の思索が捗って目でたく一つの詩が出来たり出来なかったり。

そのようなシーン描写の醸し出すようなアンビエント感が私の言うところのパターソン現象で、まあ頗るニッチやな。

にっちもさっちもいかなくなったら観たらいいっすよ!

ところで私、勝手に乗り疲れたのとオンライン中のケータイの電源微量なので東山湯の奇跡本編はまた次回にします。

ナニはなくともレッツパターソン  !