短歌は馬車に乗って

スイートなエッセイです

節分/ラテン

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 サテンに来るのは二回目だけれど、今回は特に何気なく立ち寄った。最初は仏という人物に勧められて、ちょっと前に来た。

 宮川町と給付金の話を女給さんに掛けている老婆を横切りボックス席の一つを陣取り、どこの茶店においてもそうだがスポーツ紙を手に取り競馬面を開いた。

 青白い光の中、ショーケースで石膏の調度品が存在を主張しているのか、させられているのか、それよりショーケースの外の端の裸体像、銅だろうか、ゴルフしているスウィング中のそれが特に気になる。

 んなわけがないシチェーションが満点にも思える。

 とにかく、今年は例年より節分が一日早いとかでだからといって何が変わるわけでもないかもしれないが、私自身、世紀の肩透かしみたいな休暇をもたらされていて昼下がりの空もいやに好天でこざっぱりはしている。どことなく胡散臭い平和を感じながら惰眠を貪っている所もある。

 ときに栗ちゃんはけっこう神経質だったみたいで、間近で見やると目の下の細かく堆積した皺が古物屋の奥の真鍮の舶来品みたいに、凝縮された時間のなかの苦節を物語っているというか、一応まだ若いそうだが、だからといって辛気臭い類いの印象では全然ない。

 ファニーというか、ファニーみたいな感覚は達者で素早い感受の置き換えによってもたらされる一種の技のような気がして、ファニーを知った気になった気がしたけど、多分栗ちゃんはファニーだ。 

 陽気というのとはまた違う。一時間や二時間、ささいな物音や何かでしばしば睡眠を中断され、夢はほとんど観ないという性質もいたってファニーに表現しているというか、朝の出迎えはとてもうれしい。

 鍵を開ける前からにゃあにゃあ鳴いていて、ただこちらにエサを要求しているだけにしても、生きているだけでかなりうれしい。

 サボっているつもりはないけど、丸椅子に座りストーブに当たっていると前掛けの上にそろそろと乗ってきて、落ち着きどころを丸まりながら感覚的に探している。

 添えた腕に両の手を添え置くのが最近の落ち着きどころらしくて、置きどころの右手を動かすと少し落ち着かないらしいからなるたけ動かさないようにするしかない。

 椅子から立たなければいけないタイミングなんてそんなにないけど、いずれ立つ、立つときはいつもそれなりに切ない。

 あったかいので。

 サテンで灰皿を求めると、給仕は少し躊躇して、こちらに、八日から全席禁煙になる旨を伝えた。

 僕は確かそのとき、最近ではたまにしか吸わないハイライトを吸おうとしていて、無論吸ったけど手前勝手に辛気臭いな、落ち着きどころではないな、と思ってしまったので三度目が訪れることはないかもしれない。

 そもそも元から素敵な所だし、ネルで淹れて煮やかしたコーヒーはかなり好みなんだけど、一回目に来たときも、ここでは落ち着いてなど居なかったことを思い出したりしたので。

 味なんかは、何かの折にふと、思い出せることかもしれないし。