短歌は馬車に乗って

スイートなエッセイです

東京日記20

既視感というか、うさんくさい話、ある場所にはある場所の憑依霊みたいなんが確実にいると思っていて、憑依霊みたいなんがソイツに合うヨリシロを求めて取り憑いている。

現存している人は一見もちろん人の形をして、こちらからしたら良く見える、それはまあ恐らく実際ソンザイしており、めいめいの場所で空気を吸って水を飲んだりしているからなんだろうけど、例えば私が二十歳そこらのときアルバイターとして厨房で立ち働いていた古都京都の喫茶店Fには当時ホールスタッフとしてUさんやIGさんやYさんといった面々が居た、れっきとしてソンザイしておったわけで、職場でちょい揉めをして辞めてから数年後、ふと思い出したように客として訪れたら、みんな辞めて居なくなっていたはいた、居ないのは確かに居ねえな、少し寂しいな、とか思いながらフロアの給仕たちをそれとなく眺めていたら、どうもレジにいるAはTさんみたいな髪型だな、Bは名前を忘れたが大学生だった某さんを思わせるぽっちゃりしている、Cは二三回デートをしたがコチラも名前を失念してしまった‥‥誰だっけ?軽薄ですいません。若気の至りでした‥‥元気でいらっしゃいますでしょうか?の雰囲気とポジショニングだ。だからといって再度、寝ても覚めてもみたいに、その人に恋をするわけじゃないが、しかし。

もちろん、そんなこちらの勝手な印象は彼らにはおくびにも出さず、しれっとコーヒーを飲んで帰るわけで、ただチラッと見ただけの新しい、現存していたソンザイのことは直ぐに忘れてしまうんだけれど、会話を交わしたり一緒に働いたりしたり飲みに行ったりした過去のソンザイ達の事は事あるごとに思い出してしまうのが意識の妙で、その記憶をパッと引き出すきっかけになったりするのが、見ず知らずのソンザイABCだったりするところに、記憶が記憶のあやふやの中の何か大事なツボの存在を主張している、ような気がしているし、だいぶ話が逸れたが、私の憶測というか直感では、その老舗純喫茶Fとかは、建って六十年とか経っている老舗だけあって、当所の飼っている霊みたいな目に見えない初期型のソンザイたちが手前勝手に浮遊しており、何も特別なことじゃないと思う、彼らが物質的にソコから居なくなってからというもの、その都度、めいめい気の合うヨリシロを引きつけては、タウンワーク等で店のバイト募集を見つけさせたりして採用し、似たような雰囲気を醸し出させては、というかニューカマーがもとからそんな雰囲気を持っているに違いない、つまり霊的マッチングアプリをごく天然にダウンロード、適応され憑依したりされたり、現存していると思い込んでいる我々は実際のところ、役割をみずから選んでいるようで、大して選ぶ必要がないのでは??

そう考えると、我々も存在しているというより、ただ浮遊しているだけなんちゃうか、と思ったりするのは、この程しょっちゅう訪れているシモキタの喫茶店Tの手慣れたスタッフ某さんが、FにいたUさん-Fを辞めたあと創価学会だか統一教会だか何かに入信したという噂が流れていたーに恐ろしく似ていて、また違う某さんもFにいた左利きで、タイムカードをいつも出勤時間ギリギリ秒単位で押していたIGさんを劇的にマトモにしたような感じだけれど、けっこう似ているし、それは全然似てないのか、どっちにしても、毎度新鮮な既視感があり、自分がどこにいるか分からなくなる感じが好きなので、客であることを人知れず、なるたけ辞めないようにしたいと毎度思っていて、おかわりにアイスコーヒーを頼んだら正午前、喫茶店Tではチックコリアのリターントウフォーエバーが流れ出して、ヤング過剰なこの街にぽつんとあって、老若が入り混じる客席の中で、この雰囲気は奇特だなあ、と再度思ったりしている。

今日は何して遊ぼかな。