短歌は馬車に乗って

スイートなエッセイです

東京日記9

昨年だったか一昨年だったか細かいところは覚えていないけれど、木屋町のタバコ屋でフランシス・べベイという多分アフリカの人の音源がよく流れていた。アフリカン人力テクノポップというような趣きで、シンセ中心で一本調子ながら妙に愛嬌があって夏場にかけて、聴いたらウキウキしたものだ。そこはかとなくブライアンイーノ風のフラット感もあったな。歌はシンプルな英語、ニュートラックという曲があって、たぶんようするに「ニュートラックが欲しいならバナナをくれ」という意味合いのコトバがまくしたてられては、みょみょ〜んみたいな同音のフレーズのシンセ音が鳴って、ひたすら単調なその繰り返しになんかしらんが腰が動いてしまう、それがやめつきになってしまい、オンライン下にあった過去の職場ではスポテハイでも流していたけれど、今、しばらくぶりに勝手に脳内再生されておるので、なんとなくやっぱり夏が来た!ということなのかもしれない。

梅雨は何処に⁉︎って感じもある。

梅雨というのは気象予報士などが会合を開いて、入った入らない明けた明けないを判断するみたいなので、どうやら明けるらしい、という口コミがアテになるわけではないんだろうが、しばらくは晴れ続きが予測されている、ということか。祇園の喫茶店で、風聞としてそういう情報がコチラに届いている。「気候が無茶苦茶やな。一体世界はどうなるんや!考えても、しゃあないけどな!」と、入れ違いざまに常連ぽいおじさんが言っていた。

こちらには五月あたりから、脳内の話なのでアテになるわけではないんだろうが、荒木一郎氏の「六月」という曲がやたら流れており、身も蓋もない歌詞ではあるんです【六月の終わり カラ梅雨だった…】という節から始まるわけで、毎度なんやそれっていうツッコミを禁じ得ない、しかしながら徐々に謎の情緒が溢れてくる珍名作なんですが、特に私が梅雨前から梅雨を予見していたわけでは全然なくて、これからも毎年毎シーズンことあるごとに脳内再生されるであろう「六月」が今年から、ただ流れているだけのことなのかもしれない。

それにかけて、たまたま今年の梅雨は【カラ梅雨】だった、という見方が優勢になっているみたいだから、もしかしたら私のイカサブスクリプションサービス、壊れスポテハイが今しがた脳内でフリーオンライン状態になっているのも、もしかしたら霊感なのかも!とか思い当たったりして実際口にすると、「お前はただの躁か!」とか言われてしまうのが目に見えているのでデカいことは言えないが、やたら暑くて「暑い暑い、不快!」って口から漏れてる人たちに、どうしても伝えたい。

「いい塩を摂れ」

今節、約一週間、塩と塩で体を挟み撃ちしていた私は汗はやたらかくが、暑さによる不快を一切感じていない。厳密にいえば、おとつい、夜行バスで朝、京都に着いた時は地上に出てすぐに、地域と地域を移動したことによるスピード差というか落差というか、規格外の湿度を感じた。確かに感じて、これはさすがに不快指数高いな、と一瞬思ったけれど、あくまで指数、ただの体感っていうだけ違うかな、不平を吐く前にすぅっと引いていく、つまりただの刹那的な感覚というだけのことであって、そういう感覚も大事といえば大事なのかもしれないが、アテにならないのは気象予報士の梅雨明け情報だけではない、というか、心地よい風はポイントポイントで確実に吹いている。たまの橋の真ん中に立って実感してみるといい。

カラ梅雨は植物とかの感覚になってみると、ちょっとキツそうだけど、なんなら今しがたちょっとひと雨来そうだよ。風が吹いている…

(久しぶりに我ながら無茶苦茶な文章になってしまった気がします。シラフなんですけど…)