短歌は馬車に乗って

スイートなエッセイです

尻子玉

f:id:kon-fu:20191126155708j:image尻子玉をとられて三日目。

ヤフオクで五百円で落としたばかりの木靴の底のゴムがつま先から剥がれてべらべらしている。

元の持ち主はガーデニング用に用いていたらしいけれど新品みたいに見かけ上はぴんぴんだった。

一方のやつをつい何日か前に瞬間接着したばりだけどどうも朝からソワソワしていて、こういうのは続くなあ、とてもささいな嫌な予感が当たる、電車でびっくりするくらい顔色の悪い人を見た、馬券をめいちで買った馬が落馬して死んだ、仕事で立て続けに常識的なことということで説教をくらった。

そもそも常識的というのがわからない。

ぼうっとしていたらガラスが割れて駐車場の水溜まりに破片が散らばり沈んで同化してしまったように見える。

「あんたの家の前に割れたガラスが散らばってたら不快だろ!」

そうですね確かに、と言ってはみたが、そんなふうには感じない。ただ割れているガラスがそこにあって、時間が朝なら朝焼けを受けてきらめいてキレイだなと思うばかり一刹那ぼおっとしてしまい時を忘れ、それがくたくたの靴の底に一、二かけら食い込んだところで、よほどの血が出るわけでもないし、そもそもガラスが割れるのには要因が必ずあるから、割れた時には周到にその準備が整っているはず、辻褄を合わせるようにガラスが疲れていて手前の疲れと相性が良かったとでも言えるかもしれないな。

そもそも木靴にガラス片なぞ貫通しない。

とはいえ午後いちで水溜まりを箒で掃いた。

掃くというより、浸す、みたいな感じになった。どうも掃けるようなサッサとした感触がないのでばかばかしくなって、なんでそんなんで怒るのか殊更にわからないな、が、理解することはできなくもない彼は仕事に対してヒジョーに真面目だ。馬鹿にしているわけではなくて、その仕事で培った表情や姿勢、きつい視線やクライアントに対する真摯な態度に即座に敬意を感じている。寒いのでボンボン帽子を冠っていてよく似合っている。

ただ、こちらは尻子玉をとられたばかりでやけにぼんやりしている。

ぼんやりはしているが、頭はうるさいブレンダーみたいにけっこう回転しているし、次の仕事やできることに向けて絶えず思索している。それに案外仕事はこなしている。

彼のいないところでひたむきにマンションの交換された窓という窓の残材をポニーと呼ばれる運搬用の滑車で運んで運んだ。運び終わればまた窓枠交換中のフロアに駆け上がり残材を探してエレベーターに担ぎ入れて階下でポニーに載せて、、

職人たちは個性的でストリートファイター2のクルーみたいにみえる。体が帯電しているキャラクターがいたけれど、その彼みたいなざんばら髪の兄さんがいて何かしら帯電していそうな雰囲気だが声がひときわ穏やかなので、残材ありますかー!と聞きたくなるのはこの人である、たいてい、いやー今はないっすね、と言う。他にもケンみたいな茶髪の兄さんとか、スト2ぽいかどうかしらないがキャップの上からねじり鉢巻をしてる太ったおっさんとか、あとたいていこういう〇〇工業みたいな無頼ものの集まりみたいな集団にも一人は動きがとろそうで口喧嘩に弱そうな文系みたいな人も一人は必ずいるので、そのへんも興味ぶかく、ひとつの群れというか集団のごくミニマルな多様性みたいのを感じる、それで何か、こう、まとまるというか。バランスが乱れるバランスというか。

ドラえもんにスネオが出てくるみたいに。

サザエさんのお隣にいささか先生が住んでいるみたいに。

それで、タカハシ工業はちんたらしているようで作業はめちゃめちゃ早くて戸数がのべ百くらいあるマンションを上から下へ立て続けに、その窓という窓を交換していく、

「俺、最近、逆流性食道炎つうのかなあ、昼飯食ったらやたらえずいちゃうんだよね!家ではだいじょぶなんだけどな!」

おえ、と、ねじり鉢巻のおっちゃんがえずきながら訴えている。

それ以外はまるで最初から何ごとも行われていないかのように淡々と進んでいくその様。

画面を白黒にして1.5倍早送りにしてもなんら違和感を感じないに違いない。

ところで尻子玉が取られるときというのは一瞬で呆気にとられるいとまもない。

都営新宿線に乗っていたら、小生が副都心線に乗るときというのは丸であてどがないときか神保町の喫茶ハイボールにいくときか其のどちらかなのだけれど喫茶ハイボールには寄らなかったので全くあてどがなかったのだろう、その辺の記憶が丸きりすっぽかされているあたりが尻子玉を取られたことの証左、河童のような、どこかで見たことがあるような老紳士を向かいの座席に見つけて、ああ彼はどうやら尻子玉が取られているようだな、と直ぐ感得した、そしたら気付いた時にはこちらの尻子玉をすっかり取られてしまっていたという寸法である。油断も隙もありゃしない。

取られたというより、取りこぼした、と言った方がまだ近いかもしれない。ながらしかし。

被害者意識というのが嫌いで、なになにされた、という言い方がとにかく嫌いなんだけれど、尻子玉に限っていえば「取られた!」と言わないと済まない。

それをふまえ即ちわかっているのは尻子玉が取られたという事実だけだ。

ぎくっとすることには玉にこちらの尻子玉が無いことに気付く輩がいて、そのへんも夙と分かっちゃうものなんだけれど、雨の後で湿気のきつい東葛西の現場にも、忽然と現れた彼は荷揚げ屋とは思えない端正で中性的な顔立ちをしていて、しかしながら格好からしてかなり現場慣れしていて、それは腰にぶら下げたツールケースからも分かるし、でかくて重いガラス入りのサッシを背でひょっこり担ぎあげる様からも分かる、職人たちは彼をしょうちゃんと呼んでいる。髪のキューティクルも満点で細くて小さい彼に少しどきまぎしながら、エレベーターであてどなく二人合わせになったとき、こちらは少しどきまぎしているので辛気くさく息を潜めていたら彼、軽やかに唇でポッという音を鳴らした。ハッとして目を合わすと直線的な視線でこちらを一瞥し、一閃の光みたいな憐憫を表して、逸らした。

おまえは荷揚げ界のジャンヌダルクか!

と思った次第。

そのあと雨に濡れたガラス板から自分の顔を望むと、なんぞひでえ顔やなあ、と思う他なかったわけで。

次の日も同じ現場に行ったら駐車場の水溜まりが引いていて手前がぼんやりしていて割ったガラス片が出てきたので藪に投げ捨てた。

命取られなければ大丈夫ですよ!と、ある時京都の多田くんが言った。それを玉に思い出すし、今かつやでカツ丼特盛食ってる。