短歌は馬車に乗って

スイートなエッセイです

オレティファイからスポティファイを経て又オレティファイ

yモンク帽が見つかってからというもの、総じてハッピーではあるのだけれどどうもキレた文章を書ける気がしないでいる。もともとキレてなんかないがなと言われてもこちらは常にキレを意識しているのだ。ビールはスーパードライが特別好きだ。ちゃっかりコーンスターチが入っている。それはいいとして更新はしたいのと、やばい沼に今はまってしまっているので、まぁ誰も興味はないと思うけれども、閑話をば休題して経年オレティファイ史を回想してみようと思う。一寸先は闇である。年譜はだいたいの目安である。

1986誕生
恋人よ
チェルノブイリ原発事故の直後に産まれたらしい。昭和天皇ヒロヒトさんの誕生日で物心ついたときにはまだみどりの日だった。ジュリーの奥さんである田中裕子さんや、いといとおしきタミーテレルとも同じ誕生日。あとはthe smithsが「The Queen Is Dead」をリリースしたのもこの年。だからなんだと言われても、、スミス好っきゃねん。
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あと、月刊新潮で連載している(もしくは連載していた)高橋源一郎先生の「ヒロヒト」めっちゃおもしろいです。あの人は掴み所が無さすぎる。
最初の記憶はトイレから「ウンコ出たー!」と母親を呼んだこと。まだ自分で手前のケツを拭くことができなかった。言葉を使った意思表示が即ち自分の記憶であり、ある程度言葉に支配されているんだな、と思う。深く集中したら映像記憶も出てくる気がするが、、現代忙しいな、、
五輪真弓さんの「恋人よ」は正確には自分が五歳のときに父親がくたばったあとに聴いた記憶だけなのかもしれないが発表は80年みたいなので母の腹の中で聴いていたことも容易に想像できる。母はドのつくミーハーであり、売れてて歌いやすくて誰が聴いてもぐっとくる歌が好きなように思う。歯向かいたい自分もいるにはいるが基本的に露骨に遺伝しているとも思う。
その時僕は車の後部座席で白いべとべとの砂糖がしこたまついたシナモンロールのような菓子パンをあてがわれ夢中で食っている。母親は助手席に運転席にはよく知らないおっさんが乗っていて時折こちらに「楽しくやってるか」みたいな気を向けてたり、そのべたべたの菓子パンを呉れたり、なんとか懐柔しようとはしているみたいだが、僕は子供ながらに胡散臭がっている。そんな折、カーステレオから流れていたのが「恋人よ」。ムードがどうとかいうより、なんだかじとじとしていて扇情的ではないか。なにか濃紺めいたフィルターを通したようなやや眠たげな記憶になっている。
成人してから五輪真弓さんの初期の音源「少女」とかを聞いてから、イメージは通低していたものの、誠実なピュアさに時間を越えて圧倒された。アルバムの名前は忘れたけれど、その「少女
」を聴きながら薄暗い場所で三角座りしていた無力感の塊みたいな小さい自分の姿が浮かんで消える。青から濃紺に変容していく(としたら)人びとの青の瞬間がいくつになってもとても好きでいとおしい。バックのやたら老成したようなエレクトリック演奏も渋くてかっこいい。こういう音楽がちゃんと売れてた時代があったんかと思うとなんだか少し情けなくなってしまう。遠い目。
結局僕は胡散臭いおっさんに浦河のホテルかなんかのレストランで銀の盆に盛られたシーフードカレーをあてがわれ、あっさり懐柔された。フュメドポワソン。
ちなみに浦河というところには鈴木翁二先生が住んでいるという噂もたまに聞こえてくる。
1989
川の流れのように
ヒロヒト天皇崩御と比肩するくらいのインパクトだったのかもしれない美空ひばりさんの死。
イカ天の懐古特集で昭和終焉の雰囲気が軽薄ながら面白く見ることが出来る。多分ユーチューブで。
なんとなく記憶にあるのが、声帯があかんくなってから出るはず無い声を絞り出す彼女の姿。もちろん小童の自分には何がなんだかわからない。何がなんだかわかんないインパクトだけ残った。
うちの母は岡山の山間の田舎生まれで生家はタバコの葉っぱを生産し出荷していたらしい。まだ専売公社に利権を奪われる前の時代だ。その牧歌的な農家で彼女は長嶋茂雄に夢中のおてんば娘だったとのこと。山菜が芽吹く季節つまり春に発狂したように狩りに出るのが喜びで、ばかでかいフキの自生する北海道のド田舎に嫁いだのは巡り合わせだったのかもしれない。春は何もないとこら辺だ。嫁ぎ先は鮭を捕って稼いでいたし、それにつけてなんでもかんでも美味しいので、写真で振り返ると彼女は気持ちよさそうに肥えている。僕もガキんちょの頃は肥える以外選択肢がなかった。
そんな母は学生時代、田舎では指折りの美声の持ち主だったようで眉唾ながら「北房の美空ひばり」と称されていたとか。僕を産んだのが四十二の時で、昔みたいな美声が出ないことを折々に嘆いていた。
それにしても「川の流れのように」が秋元康氏の出世作だったとは。
つくづく平成という時間は昭和の残り滓を後生大事に奉っていたんだなぁと俯瞰されてしまう。
というか現元号と旧元号の関係はいつもそんなよなものなのかもしれない、例えば永井荷風の思う江戸と明治の関係みたいに。
さりとて残り滓もおからみたく捨てたもんじゃなくて、まぁまぁベタな話ではあるんだけども、かの内田百間先生は豆腐よりおからのが旨いと声を大にしていて、特に国産のシャンパンとの食べ合わせがすこぶる美味だと書き遺している。なんとも小ややこしいグルメだが、晩酌は瓶詰めの月桂冠しか受け付けず贈り物の地酒を料理酒にしてしまう話とかサイコーで、古今の能書きグルメたちに説法してもらいたいもんである。
本当の殊勲は毎日(かどうかは知らないが)おからを炊いていた彼の二代目の奥さんなんだけどね。
1993
最後の雨
記憶の辺境に埋もれていた歌たちを掘り起こせ得る僕とスポティファイの関係はまるで墓荒らしと墓。スポティファイは風通しのいい霊園だった。
センチメンタルで辛気くさいといえばそうに違いないんだけど、むやみやたらに過去を消去していく生き方はなんだか勿体ないと思う。トラウマをひきづってたり無い過去にこだわるのは、今を真剣に生きるのに害面ももちろん多いんだろうけど、恩恵も相応にあるんじゃないかな。だって四六時中足をつけている地の下には煌々とマグマが煮え盛っていて、たいてい頭上には空があってその上には宇宙というものがあるらしくブラックホールまで恐らくは空間をひとつにしていて、今、居ると思っている所はもっぱらその中間というか、、
何が言いたいかというと空間と時間をダブらせると過去も未来もほぼほぼ一緒で二重写しなんちゃうかなってなんとなしに思ってしまうのだ。
例えば、僕が今、七割型居候させてもらっている宅の主人八十田は白内障かなんかの手術をしてから「今」がよく見えないと言っていて、僕が初任給でもって買ったサングラスを嬉々としてかけて帰るやいなや「その手の胡散臭いおっさんに又近づいたな」とか言って未来を予見していたするが、反対に僕は彼の「今」のパリッとしたスーツ姿を見ながらも鬼太郎みたいな縞のシャツに下駄をつっかけて狂ったようにギターを弾いている大学生の頃の彼を見続けている。
人の心象風景はこのようにズレ続けていくけれども、なんというか過去とか未来とか、楽しいのと哀しいのとか、ツラいのとハッピーなのとか、うつとそうとか、まとめてイエイみたいな。
前置きは長くなったし話は幾分ずれているかも、七歳で北海道を強制退去せられ母と岡山の母の生家に一時転がり込んでいた。昭和初期の名残が色濃いぼっとん便所に牛小屋、炊事場土間で小便器ソトみたいな鬱蒼とした古い家で、慣れない学校から帰ると母の兄の長女で知恵遅れの京子に居間のコタツの中で足をつねられて虐められるのでめちゃめちゃ怖かった覚えがある。京子は今でも健在で町の作業所でクッキーを焼いている。何年か前叔父の葬式で十年ぶりくらいに出向いたが、京子は約二十五年僕の印象ではまるで変わってなくて、しかも十年ぶりでまぁまぁ風体がやさぐれたであろう僕を親せき中で一番に見つけて声をかけてくれた。人思いの優しい人なのだ。彼女はいつも適度に退屈している。
彼女の弟である清治(きよはる。仮名)は今ではその家の跡取りで地元愛の強い偉丈夫な壮年パパといった感じなんだけども、僕がガキんちょの頃は今振り返るとまだ青みの残るあんちゃんだった。
細かいことは聞いてないのでよくわからないままだけど、僕が母に連れられて彼女の生家に逗留していたタイミングの少し前くらいに清治も、けっこうな都会である岡山市から田舎に戻ってきてもて余してたんじゃないかな、時折母が所用の時に僕は中ぶらりんの清治のキミドリ色の香芳剤の効いた白くて車高の低い車の助手席に乗せてもらって、津山くんだりまでドライブした。本当に今になって初めて実感するのだけれど、僕はあの清治の車が生涯乗った車の中で一番好きだった。天満屋だとか冴えないショッピングモールで初めてのマクドで初めての照り焼きマックを食べた、今食べるビックマックより二倍も三倍もでかくて美味しかった。清治にとっては、母は案外そういうとこに律儀なので、悪くないバイト代を貰える都合のいい休日だったかもしれないけど、はっきりいってその時は母や父より清治の方が好きだった子供の冷徹さよ、そのボロ家の二階に清治の部屋があって、彼が不在の昼間こっそり忍び込んでは初めてぼやかしなしのヌードの女体のカレンダーを見つけて興奮した。一緒に風呂に入って彼のちんこのでかさにまじでびびった。天皇の写真がなげしの上に飾られた居間でマリオカートをした。学校帰り、帰宅がすこぶる早く暇をもて余している京子に苛められてる時に彼の帰りを待ちわびる永遠のような時間、背伸びして聴いた彼のCD-中西保志の「最後の雨」―を何度も何度も繰り返し繰り返し聴いて没頭した小学一年生の僕は良かれと思って母に落合のサンプラザに連れていってもらって小遣いで中西保志のアルバムを買って清治の誕生日にあげたのを彼は覚えているだろうか。ありがた迷惑だったかもしれんけど、あの頃の僕はピュアでませてて少しデブで可愛かったな。
その曲をおおよそ四半世紀ぶりにスポティファイで聴いたら、いわゆるニューミュージックで、今ではニューミュージックは腐臭まで感じるほどのオールドミュージックだけれど、ニューミュージックはいつになってもニューミュージックであり続けるみたいなことを、落日飛車とかとの音楽体験で痛感した僕は、とうとう当時の清治くらいのおじさんになって、甘い歌にやたら泣けるようになってしまって、たまにしか会えんくなった息子サンとはとバスに乗ったりしている。今の息子サンは実情のことなんも知らんと今の僕が大好きだろうなぁ。
1995
がんばりましょう
番組名はとんと覚えていないがなんとなしに見ていたスマップの冠番組はたしか夕方六時だとか六時半に放映していて、彼らは野球に興じている、牧歌的な雰囲気でまだ森くんもいたな。
1994年が巨人のメークドラマつまり長嶋カントクの出所不明の霊験みたいのが顕わになった年だから、ようするにまだ球界が沸き立っていた。名古屋しゃちほこスタジアムでの巨人と中日の天王山は今から思えば異様な雰囲気で、まるで試合を写すブラウン管のテレビそれ自体が岩盤浴しながら発汗してるみたいだった。
冷静に考えたら戦力から鑑みてその試合で巨人が負けるハズなどハナからなかった。
たしかに勝負事は蓋を開けてみないとわからない。
先週末の安田記念では歴代指折りのスピードを持つ駿牝馬アーモンドアイ(名前通り目が可愛い)も単勝1.7倍だか1.8倍の圧倒的支持を受けながら三着に沈んで、職場の同僚O山君はボーナスをぶちこんで外して凹んでいた、よく出勤できたよな、安田記念は僕の短い競馬歴でもわかるくらい魔物が棲んでいるレースで、近くでは2016年当時マイル界を制圧していたモーリスもテン乗りの外人騎手がてんぱって負けた、僕は今ではこの手の絶対王者が沈むレースが大好きになってしまっていて、いつからそんなひねくれものになったんだろうと思い返すと、デブの頃は主流でいることに迷いがなかった。中途半端に痩せてなんとなく色気に目覚め人目を伺う癖ができて、恋は軒並み破れて、部活の顧問には嫌われた。
しようもない身から出ただけの挫折を繰り返して鬱屈してしまったのだ。
その挫折みたいのを成人してからも形を変えながら延々と繰り返しながら、段々どうでもよくなりながらも、またどうでもよくなくなったりして、見える景色はどんどんぼやけて、カスカスになって、たまに夜道の街灯がサイケデリックにキリストの背に浮かぶ円環みたいに色めきを放ってぼんやりしながらこけそうになる、そう僕は形を変えて酔えるようになったのだ!
今にも過去にも未来にもやりようによっては酔える!
話は逸れたがメークドラマに戻ろう。
圧倒的な安定感があった斉藤、まだ五体満足だった桑田、直球150キロ出ていた槙原をずけずけと投じて相手が敵うはずがない、ちょっと野暮な八百長じみた試合だった、のを国民が取り憑かれたように熱狂し、恐らくや巨人が負けることに恐れおののきながら、両の指を組み、ある人は間断なくスーパードライを飲み続けながら、またある人はまんじりと冷えていくナポリタンの所在をフォークに巻きつけたまま忘れてしまいながら、祈るように見ていた。
その時僕はそこに居ることなど忘れて、膝を130度に曲げて畳の上に立って、テレビ越しに相手投手のリリースにタイミングを合わせ、右利きのくせに左打ちの構えで、スウィングする、ほんとうは当てれるはずもない玉が確実に打ち返せる気がはっきりしていた、ふとっちょの子童の僕はそのまま松井秀樹だった、そのときどれほどのがきんちょが松井秀喜になりきっていたんだろう、ピンポン玉みたいに外野席中段に飛んでいくボール、無表情のぼこぼこした顔、妖しくキミドリに明滅する日立の看板、すべてがまだ解りやすく巨大だった、今になってはっきりわかる気がする、彼の打球は僕達が一緒になって飛ばしていたこと、松井は物言わぬ頼りがいのあるただのスターだった。
あの頃は良かったなぁなんて露ほども思わないが、なにか忘れてはならん特別な熱があった。
去年だかにみたクーリンチー少年殺人事件の背の低いプレスリーみたいにただただ憧れてやまないアメリカとか、ボヘミアンラプソディのパキ野郎とか、飛鳥時代の異郷の阿修羅様とか、インド人の象の神様とか、いつかの天皇とか、青いシャツの小泉首相とか、GACKTとか、僕にとってのキュートな神馬ゴールドシップとか、、
「ヘイヘイヘイボーイ」とあのときの彼らは僕らを煽る。
挫けずに頑張りましょう。
初めて買ったシングルCDの話でした。
今年のダービーも波乱のうちに終わってこれから続々とゴールドシップの子供達がデビューする少し寂しいような感慨深い楽しみ。
1997
恋心
早朝五時前後にのっぴきならないような揺れで目が覚めた。
壁側の棚からお気に入りの1/50スケールの白いガンダムが転げ落ちた、さすがに震源地からは離れていたので、人身御供のガンダム以上の悲劇はこちらの身に及ばなかったが、それにしても何か無自覚に享受していた平安シュメールが足元から崩れるような悪寒だけは小わっぱの僕にも走った。大人のおかんと子供の僕の悪寒。二人きりでは少しく心細かったその年は阪神大震災の年で、実感はさすがに薄い、どこだか知らない場所でけたたましい噴煙が立っているのに僕らは普段通り団地の空地にAM7:45に集合し登校準備、やけに気になる同級生のアヤカちゃんにかける言葉さえ見つからないのに、彼らに何を労えるものだろう、たんたんと横断旗を振り回して、わずか六人ばかりのこども十字軍はたかだか十分ほどで聖地イエルサレムならぬ水溜まり小学校に到着する「育め命水溜まりっ子」という校舎正面二階に発泡スチロールで貼り出されたパンチラインの意味合いにぽかんとしてしまうのもご愛嬌、青い短パンと白くて柔らかい半袖着に着替えて朝礼の時間を待つ間、校内でにわかに流行っているけん玉に興じ日本一周に世界一周、宇宙一周てスケールでかすぎへんか、情緒豊かな灯台逆さ落としはさすがにまだ難しい、多動に飽きたら昨日Mステで見たオリコンランキングの話、馬鹿でデブでませた僕は相川七瀬の恋心になぜか夢中で一番の歌詞はそらで覚えた、導入♂ねぇ教えてほしい~♀なんてアダルトすぎるやろ、という大人の突っ込みをよそにナルシスティックに没入する小四の僕に客観性はぎりぎりなかった。
バックヤードで恋心を気持ちよく歌いながらも恋心の心を知らない太っちょはいつも少し感性が大人びている同い年の女の子に何を思われただろうか、などど考える細い神経がないので、その愚鈍さには一長一短もあるとは思うんだけれど、小学一年生といえど女の子は感覚がませている、僕が水溜まり小学校に転校するやいなや八田さんという可愛らしい女の子は僕にラブレターをくれた、おそらく初めての転校生に隣の芝グリーン効果が発動し思い誤ったんだろうが、僕はまだラブレターがなんたるものかてんで理解できておらず、彼女の、ただの勢いにしても、思いを汲み取ることなどできるはずもなく、黒ヤギよろしく読まんと食べた、そのラブレターがどう思い返してみても自分史上最初で最後の異性から貰ったてらいのないラブレターだった。思い返すたび、そのかけがいのなさにひっくり返りそうになる。八田さんとはその後小四くらいの時もグループで遊んだが、なんかそういうのからは食い違っていて、小五になったら急に異性的な要素が気になり出してそれまでみたいにうまく言葉が発っせなくなってしまったが、八田さんは一年生のときからとっくに僕らを異性と意識してくれていたんだな。
なんなんだ、あの性長の差っていうのは。今になっても一向にその溝は埋まる気配さえなく、その間に揚子江が化け鰻みたく横たわったままその腹中の大量の泥を吐こうともしない。
八割がたもう会うことはないだろう八田さん。
密やかなまま、おそらくやすでに立派なお母さんになっているであろう八田さん。
あのときはどうもありがとう、どどどうかお元気で。
1998
ゆずの素
水溜まり小学校を卒業すると自動的に北宋中学校に進学するのだが、水溜まり小学校ではどちらかかというとぶいぶいいわせていた僕はイカにも井の中の蛙で、わかりやすいところで言えば水溜まり小学校にはソフトボールクラブしかなく、そこではデブなりの臀力をイカしてかっとばしていたのだが、となり街の野球クラブのある上水溜まり小学校の連中と肩を並べると、どうにもこうにも頭打ちだった。上水溜まり小学校の他にも、基礎体力の高い荒くれ者が多い浅瀬小学校、生徒数は一桁だが山の上で猿みたいな野性児を輩出する小椋小学校、街の端ゆえどことなく牧歌的な子の多い坂津井小学校とが一挙に集合するので、誰もが同じっちゃ同じなのだけれど、順応するのにいささか時間がかかったことは否めない。在校時はそれなりに子供らしく一緒に遊んでいた水溜まり小学校のひとつ上の先輩である前田と木田はどちらも野球部に入っていたのだが、隣街の眉毛のないヤンキーの角田に完全にマウントを取られていて、ようは舎弟みたいになっていてなんだか失望してしまった覚えがある。特に当時からタッパのあった前田が角田に萎縮している様は見ていて辛かった。僕らは立場上、その萎縮しきった前田の後輩に当たるので、なしくずし的に角田の傘下に入ることになってしまってヒジョーにしょうもない社会の縮図みたいのをまんじり感じざるを得なかった井の中の蛙であった。
LOVEppears
2001
REVIEW 〜BEST OF GLAY〜
2003
MISS WORLD
2004
メロンコリーそして終りのない悲しみ
2005
Closer (Reis) (Exp)
2006
宇宙 日本 世田谷
2007
On The Love Beach
2008
国立気分(ライブ’84&’85)
2009
ソングライン
2011~2016
8-9-10!!(Ver.2)
2017
渚にて
2018
アンダーグラウンド+3
2019現在
がんばれ!メロディー

ゆっくりかきたしていきます