短歌は馬車に乗って

スイートなエッセイです

つぼみのついた桃の枝をまだ小さかった娘にあげる

Lulu's Back In Town

Lulu's Back In Town

三月になって今日は芝山氏の娘さんの誕生日なので、なにかと彼女のことを思い浮かべるわけだけれど今年で小学生になるらしい。芝山氏は僕と入れ違いのように今、入院していて、どうやらたちの悪い腸炎だったらしく、月曜日のミカちゃんと先日見舞った。僕が入院していた病院が東京ドームだとしたら、芝山氏のそれは神宮球場で、ようするにローカルな感じ、ゆうげ時、匂いは昔通った小学校の配膳室みたいで郷愁に誘われ、自然さかのぼって父親の入院のイメージと重なった。あのとき確か父は母らが出払っていた折ふいに吐血して僕は子供心にびびった、前後関係なく吐血しびびってナースコールを押したことだけを覚えている、そんな薄黄色がかった病院の色調、、
芝山氏はもみあげの白髪が強調されてい、五日間の絶食でだいぶん痩せていたけれど案外元気そうで、せなあかんこといくらでもあるのに何してんねやろ、とぼやき、帰りし点滴と並んで一緒に院外に出、自販機の前で三人でタバコを吸った。寒さが穏やかになっていたし、気持ちのいい漆黒だった。この街に来てけっこう経ったけど、初めてのような懐かしい風景。缶のおしるこをおごってもらい、のんだ。
【な、汁粉飲も、若の傷、愛、あずきの皮も残るしな】
そんな感慨であった。

そう、僕は今、閑にかまけて回文をせっせと拵えているわけだけれど、実はある確信がないわけではない。
そもそもは近所のジャズバーで会ったレエモンというおじさんに吹き込まれたわけで、奇しくもそのレエモン氏が芝山氏と瓜二つ、鳥打帽のかぶりかたから眼鏡の質感、上着ツイードの着こなし具合、酒が進んでからの絡みかたに至るまでそっくりで初めて会った雨の日から他人のように思えなかった。二回目会ったときにレエモン氏は土屋耕一という故人の回文を教えてくれて僕は思わず感動してしまったわけだけれど、森では、(あえてここではジャズバーのことを森と呼ぶことにする)セロニアス・モンクをよく盤でかけてくれる。僕は回文にはまる前から森で聴くモンクに言わば回文性をはっきりと感じていて、とくにルルズバックインタウンという曲が回文的で、意訳するとルルが町に戻ってきた!ということだろうか、つまりどういうことかというと、上から聴いても下から聴いても一緒、こう言うとけなしているみたいに聞こえるかもしれないけれど、そんなことでは一切なくて、まるで数々の感情が、硬いカボチャやジャガイモやでかくて変な形の瓜みたいな感情が煮込まれ尽くして、しれっとしたいかにも凡庸みたいなポタージュになっているような。胃の弱った朝に沁みますわ、みたいな、さりながら、あまりにしれっと出されるので有り難みを感じにくい感じが、好みです。それで、
【伊丹くんもモンクみたい】
三回目のレエモン氏に献上したら、駄回文であるこれを誉めてくれた。
「ただ、君はまだ前途明るい若者なんだから、回文なんかに身をやつしてはいかん。百間みたいになっちゃうよ」
その言葉に対し僕は少々哀しみを覚えたのは腑に落ちるところもあるんだけれども、最近急速度に百間先生に親和性を深めていて、まるで友達のように文章を読んでは、吹き出し、または眠くなり、それか感心しているからだ。たいてい京阪電車に同乗してもらい遊んでいる。
 
 夜は大概仕事をしない。おなかのふくれたところで寝てしまう。(中略)八時間から十時間ぐらい眠りつづける事は何でもない。自分で随分賢いと思う事も多いが、こんなに長い時間ぐうぐう寝ていられるところを見ると、本当は腹のどこかが抜けているのではないかと疑わしくなる事もある。(百)

どちらかといえば僕は広義において社会派な回文をつくろうと試みているのだ。回文はカドが立たなくていいと思う。たまたまとか弁明がし易い。それにだいたい社会なんて支離滅裂である。

【捨て句らいてう午後死ぬ自己肯定楽です】

「君の回文には『死』がよく出てくるね」
「たまたまですよ」

森で最近みかけない仲西というおじさんがしばらく前に、
「いやぁ、うちの娘がさぁ、なんか公安に目つけられてるらしいんだよね、へっへー」
話を伺っていると、どうやら仲西さんには前妻がいたらしく、そのときの子供で、高校を出てからぽつぽつ会う機会が増えたらしい。
「なんかトランペット欲しいらしくてさ、ほんじ君持ってたら頂戴よ、へっへー」
仲西さんと僕はいわば森友で、森は一応ジャズバーという体で開けているし、ママのジャズの含蓄もかなり切れているんだけれど、僕を含め客の半分はこれきしもジャズに興味がない連中で、それが絶妙に店のぐだぐだなジャズ感(というものがあればだけれど)を醸成しているような気もする。ただ、やはり森にもいわゆる頭のかたくななコルトレーンきちがいがいるにはいて、その御仁は団塊ベビーブーム世代であり、だからかどうかは別として言い切りしかしない、サラミはやっぱりイタリア製に尽きるとか、深入りのコーヒーはどうも受け付けんモカに限るとか、京都でうまい魚なんか食えへんで最近のどぐろ高いなあとか。それはまぁただのこだわりなので「へぇ、詳しいっすねぇ、へっへー」で流せるんだけれども、周囲の空気を選ばないコルトレーンばかりのリクエストは甚だ興をそぐ、ひとり悦に入りぱなしの御仁には何度辟易したかわからない、おかげでとうとうコルトレーンが嫌いになってしまってこのまま終生コルトレーン嫌いが続くのかと想うと僕としても残念としか言いようがない。ただ、御仁がボトルキープしているグレンリベットはかなり上等で、ようは森の上客なので、なにも言えんし、気分がいいときたまに話に付き合うと呉れるので、結局懐柔させられている。僕は結局混ざりけの多いホワイトホースくらいしか飲めないので低層客という他ない。
御仁のことはいいとして、森友であると同時にホワイトホース友達でもある仲西さんとは馬が合う、ある時夜更けに森に行くと仲西さんはすでに泥酔寸前で、陸に乗り上げたアザラシみたいにカウンターに突っ伏していた。
「俺さぁ、毎朝早くから伊賀まで運転してるじゃん。もうなんかさ、道路の凹んでるとこ覚えててさぁ、あぁ、またここの凹みだよ、ガクン、とかなるのが分かりきってて嫌で嫌でさぁ、あーあもう辞めたい」
と、珍しく弱音を吐いていると思ったら、おもむろに森のアイパッドを奪って、クイーンを回し始めて爆音でウィウィルロックユーを聴いたんだけれど、それが俄然エモくて、その時僕のなかで初めてエモいという感情が結晶化したとも思う。よかったとしか言いようがない。厳密にいうとそのプロモーションビデオがとくによかった。それから少ししてムービックスのレイトショーでボヘミアンラプソディを見、思惑通り感動した気がするのは、仲西さんの影響が大きいはずだ。両脇の知らないお姉さんも泣きながら観ていた。
とにかく、僕自身少なからず仲西さんの影響下にあって、なんとなく彼の娘さんのことまで勝手に気にしていた折に吉田寮にライブしに来ていた友達を労いに行ったら、同い年の髭もじゃで白髪の多いドラマーのK君も見にきていた。どうでもいいがK君と芝山氏は同じ誕生日である。さそり座。K君が寮の食堂の外でどことなく小さくなっていたので、中入ろうやと声を掛けると、
「いや、俺いま出禁やねんか」
と、そぼそぼと答えて、少しく驚いたのは吉田寮出禁とかあんまり聞いたことがなかったからで特にK君なんかは見た目的にあの場にいかにもハマるキャラだし、実際ライブで出ていたこともある。なんとなく由々しいことだと思い、中でお酒を買って外に持っていって聞けばどうやら彼に吉田寮関係者の女性に対するセクハラの嫌疑がかかっているらしい。確かに彼は脱ぎぷりの良い人で静かに酒を飲んでいると思っていたら、いきなり陰部を出していたりすることがあるし、知り合いの店で年配のお姉さんの胸を触ってしこたま怒られ出禁になったこともある。そのへん僕が擁護してもどうしようもないが、彼は触る相手が男でも手つきはそれなりにいやらしいし、そのあとのことまでは知らないが基本的に平和主義である。彼より一見紳士的で陰湿な性倒錯者なんか掃いて捨てる程いるし、僕だって彼のある意味こざっぱりした相手を選ばないボディタッチ精神と比すとよっぽど陰湿な性癖を自負している。つまり僕は彼を得難い存在だと思っているから、最初から視点が自称被害者に寄り添っていない故に話にならんわけだけれど、彼が肩触っただけや、と言ってる以上それを信じるし、できうる限りの公平性をもって判断しても、相手の過剰反応としか思えない。確かに手つきはいやらしかったかもしれないが、、
そこには今まで主として話し合いで問題を解決し、自治をしてきた吉田寮生の矜持を感じもする、公平な話し合いをさせてもらえない現状に憤りを感じていてピリピリしているところもあるだろうし、、
それとこれとは話が違うにしても、そのときK君が謝ろうとしたとして、また違う関係者が出てきて、酒飲んでるやつの謝罪など誠意なし、と言い切りだし、なんだかあまりに傲岸だと思ってしまって、やってられるか、と妙な板挟みのような状況の僕も辛気臭くなってしまってさっさと門外に出てK君と残りの酒を飲んでいたら、颯爽とチャリでこちらを見つけた女がK君に向かって、
「おい、お前いつまでいんねん!そこ寮生の邪魔やからせめて道路の向こう行け!」
と、怒鳴り吐き捨ててきたもんで、瞬時こちらもカチンときて、誰の市道や、言い返すのを聞かずぶったくりである。その女が自称セクハラ被害者だったわけだが、見覚えがあったのは仲西さんの娘さんだったからで少しばかり困惑した。彼女の声はいい声だな、とも思った。
しかしながら無論K君は深く傷ついていた。静かに怒りを湛えながらこもった声で、
赤塚不二夫読めや」
とぼやいていてつい吹き出してしまった。
関係ないケンカではあるが義憤を感じてしまった僕はK君ともども吉田寮には行かないことにする。昼間に謝りに来い、とも言われていたが、彼は「なんでこんなとこ昼間に来なあかんねん」
とも言っていた。同意である。
その後二人でしみじみエルテソロという飲み屋で、呑んだ。いろいろあるけれど基本的にハコというのはただのハコであるべきだと僕は思っている。

【民庇う藤村相当馬鹿みた】

それはそれとして、

 私の庭に葉蘭がある。その葉蘭の葉を叙述しうと思ふ。その叙事文に、私は文章の上の一つの方法として、檻に入った狐が縁の下にいて、夜分になるとそれががたがた揺れる。さふ云ふ事を書いた方が葉蘭を描冩する上に適当だと思ったとする。さうしてそれを試みたのです。(中略)葉蘭の描冩に狐が實際に私の家の縁の下にゐるか、ゐないかなど云ふ事は無用な穿鑿だと私は考えるのです。つまり、さうして表現されたものが眞實でそれが現実なのです。(百)
 
庭先に紫陽花の咲いている季節からしばらく出向いていなかった横光君の家に泊まったのは、たまたま僕が天王町の喫茶店で油を売っていたのを見つけられたのがきっかけで、その店は入り口側の前面がガラスでパカアーンと見通せる中からは往来が外からは客席が。彼は二歳過ぎになる娘のヒナコを保育園に迎えに行った後一緒に喫茶店に来た。それで彼女にチーズケーキをあてがうと一瞬でなくなった。半年ぶりにまんじり会ったヒナコは、さすがの成長ぶりで喋る言葉も動作も表情も食べぷりも、僕からしたらすでに大人のようなものだった。なんとなく半年前に家で遊んだのを覚えていたのか、息が合うのにそう時間はかからなかった。彼女は然るべき態度でチーズケーキのおかわりを要求し、父親は然るべき態度で要求を断った。それからフォークで皿をがちゃがちゃしだした。
「外食すると、多少のわがままは聞いてくれるってわかってるんだよねぇ」
僕は彼ら父子がすでに心理ゲームのように対峙しあってるのに感心した。
どうせ家かえりたくないんでしょ、ということを横光くんは把握していて、また飯つくってよ、泊まってもいいし、と言うので図星な僕はそのままついて行って飯をつくって三人でだらだら食べた。ヒナコは食欲旺盛でなんでもよく食べたが、さっきチーズケーキを平らげていたし、戻ってきてバナナも食べていたので米だけはあまり手を出さなかった。横光くんが、米を食べなかたっらおかずあげないよ、と言うと、ヒナコは、嫌、と言う。
「嫌っていってもダメ」
「嫌」
カボチャをしこたまいれたシチューをヒナコはたくさん食べてくれて、口に含むたびものすごいいい表情をこちらに返してくれた。その家ではつねにまぁまぁでかい音でヒップホップ寄りの音楽動画が流れていて、パソコンのウインドウ上ではアンパンマンのオモチャの動画が動いている。時折ヒナコが、音楽見せて、と父にせがむのだけど、それは音楽の映像が見たいから切り替えて、という意味のようで、FNCY というユニットの美味しんぼをパロったPVに異常な感心を示す。イントロが流れるやいなや、である。終わったら、もう一回という一連の流れを五回くらい繰り返しようやく飽きるようだ。横光くんもこればかりは何でかわからん、と言っていた。なにかと興味深いのとかわいいので僕は骨抜きになってしまって、その晩はなかなか寝付けず仕方なく朝までナンバーガールの回文をつくった。

結局居間で雑魚寝のようになったあくる日、ヒナコは保育園に行ったが、横光くんは休みだったし雨だったのでそのまま二人でだらだらネットフリックスで映画を見た。ナットキングコールのドキュメンタリーと南極料理人をちんたら柿ピーを食いながら、なんやかんや駄弁りながら、観た。たまたま主演の二人が子煩悩だったのが僕にとっては当て付けみたいにも感じたけれど、南極料理人の方にK くんみたいな髭もじゃが出ていたので、まぁまぁ楽しく見れたし回文も出来たのでよしとする。

【わい南極行く預金無いわ】


FNCY (ZEN-LA-ROCK / G.RINA / 鎮座DOPENESS)「今夜はmedicine」